道具のラビリンス(番外編) 「スペイン風邪の黒マスク」/関根秀樹
2011-05-24
- Category : 関根秀樹
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たき火や刃物のWSなどでいつもお世話になっている
和光大の関根先生からの寄稿を紹介いたします。
ラビリンス
道具の迷宮 番外編
スペイン風邪の黒マスク 関根秀樹 2020.5.6
中国発の武漢ウィルス肺炎(いわゆる新型コロナウィルス肺炎)は、往年のペストやスペイ ン風邪もかくやと思わせる経済的、社会的破壊力で 21 世紀の都市文明を麻痺させ、混乱と不安、貧困と疲弊を世界中に拡散し続けている。去年まではインフルエンザや花粉シーズンのたび外国人をあきれさせてきた日本のマスク文化も、この緊急事態で、一時的とはいえ世界のスタンダードになったようだ。
台湾政府の見事な手際はただうらやむしかないが、日本は安倍政権のあきれ果てた無策 失策から、今もってコンビニでマスクが入手できず、一部では昨年(2019)までに比べ値段は 数倍~10 数倍にも跳ね上がっている。同時に、白だけでなく青いサージカル(医療用)マスク、黒やグレー、ブルーグレーやピンクその他、なかなかにおしゃれなマスクが目に付くようになり、色物のマスクを色眼鏡で見る人もいなくなった。何色だって、ないよりはましだ。
カラフルな模様の布で縫われた手作りマスクも街にあふれている。カワイイのもあれば、シブい伝統柄もある。日本のそんな様子が、中国人や韓国人には本当に珍しく映るのだという。なぜなら、かつての日本よりすさまじい受験地獄のかの国では、家庭科をほとんどやらない学校も多い(部活動のたぐいもない)。基本的な裁縫の技術を身につけた若い世代なんて、ほとんどいないらしい。儒教国家では手仕事、職人仕事は大事にされないから無理もないが。
日本の不織布や不織布マスクは国際的にも高性能で評判が高い。疑惑のアベノマスクは検査の結果、細菌や微粒子の透過率 100%(濾過率 0%!)で、まったく何の役にも立たない!が、ふつう、きちんとした技術と経験のある工場で適正な材料を使って作られた不織布マスクの濾過率は、細菌を含む平均約 3 ㎛の粒子も、平均約 0.1 ㎛の浮遊微粒子も、ともに 95~98%以上。比較すると、もはや政府は詐欺師集団だ。
さて、黒いマスク。なんだか昭和の不良少年だの、月光仮面やまぼろし探偵に出てくる悪の秘密結社の下っ端あたりがつけていそうだが。10 年以上も前、町田や大和の骨董市で、大正時代のパッケージに入った黒革の小ぶりなマスクを見つけてちょっと驚いた。スペイン風邪が猛威を振るった 1918 年頃、革やビロード、別珍製の黒マスク(裏地つき)は富裕層のステータスシンボルだったのだという。当時の新聞記事 の写真や広告も、マスクはみんな黒、黒、黒だ!
上は大正時代の黒マスク。昭和の少年漫画で暴走族など不良少年がつけているのは見たことがあるが、これが一般的な時代もあったとは。再びインフルエンザが猛威を振るった 1933~34 年(昭和 8~9)にはマスクが大流行し、日本のマスク文化のもとになったようだが、当時のマスクは黒繻子(しゅす)が主流。白が一般化し始めるのは昭和 10 年代も後半で、戦時中の防空演習などで使われた防護マスクや従軍看護婦のマスク、一部で配給された愛国印軍隊マスクなどから。ガーゼを重ねたマスクが売り出されるのは 1950 年以降。不織布マスクは 1973 年からという。
考えてみれば、白いマスクは汚れやすい。洗って使っても限界はある。大量生産で コストが大幅に下がるまで、白いマスクが主流になることはなかったのだろう。
さらにさかのぼれば、明治 12 年(1879)には、江戸時代から続く医療器具問屋(古くは薬種商)、いわしやの松本市左衛門が、呼吸器(レスピラートル)という商品名の黒マスクを開発して売り出し、新聞広告を出している。
レスピラートルはレスピラトール respirator(人工呼吸器)のこと。なんとも大仰な呼び方だが、これは真鍮の金網を芯に黒ビロードの布フィルターをかぶせたもの。 裏側は赤い生地。中心部の立体的な凹みで口に直接触れない工夫もあり、今のマスクよりちょっと「器具」っぽい。マスクは直訳すれば仮面だが、このころはまだサージカルマスク(医療用マスク)という概念は定着していなかったのだろう。
ちょうど 100 年前、1918~1920 年のスペイン風邪(武漢肺炎と違ってスペインが発生源ではなく、最初の流行はアメリカ。別名 1918 インフルエンザ・パンデミック)
では、世界人口の 3 分の 1、およそ 5 億人が感染し、数千万人の死者が出たと推計されている。日本でも当時 5000 万の人口のうち 2380 万人が感染し、39 万人近い死者が出たという。人口も過密度も人の移動も屋内の気密性もはるかに大きくなった現代都 市の感染危険性は、医学の進歩を差し引いても、当時よりずっと大きい。
14 世紀のペスト(黒死病)では、死者1億人!世界人口 4 億 5000 万人の 22%、5 人に1人だ。当時の医療では感染したら致死率 30~60%。医者にかかれない者はほぼ100%助からなかった。イタリアやイングランド(当時はブリテン島の南側3分の2ほど)では人口の 8 割が死亡し、全滅した街や村もあったという。
16~17 世紀にもペストは大流行し、明末清初期の華北で 1000 万人、オスマン帝国やヨーロッパでも多数が亡くなった。1855 年に中国雲南省で大流行した腺ペストは94 年国際都市香港での大流行をきっかけに世界に拡大し、20 世紀初頭まで断続的に多くの死者を出し、現在と同じように深刻な経済格差や差別を生み出しもした。
ピーテル・ブリューゲル「死の勝利」1562 年頃。
1348 年 フィレンツェの黒死病 ボッカチオ「デカメロン」挿絵
14 世紀のヴェネツィア共和国では、黒死病が猛威を振るった 1347 年以来、疫病は常に東方(オリエント)からやってくる船から広まることに気づいていた。そこで 1377年には船舶の寄港を 30 日間(1カ月)差し止め、強制的に港の外に停泊させた。海上検疫の始まりである。しかし、1カ月では防ぎきれず、6 週間(42 日)隔離すると、生き残った者に免疫ができ、上陸後の二次感染も食い止められることがわかった。もちろん、その間に船内で感染が広まり、場合によってはほぼ全滅する可能性もあるが、少なくとも港からの危険な疫病の流入は食い止められる。
この 40 日という隔離期間は、多くの危険な感染症に対しても有効な数字とされる。検疫を意味する英語quarantine は、この事績にちなみ、ベネツィア語で約 40 日間を意味する quarantona という言葉が語源になっている。当時の他の国々でも、検疫所は多くの場合、港湾都市付近の海上や離島などに作られた。
ところで、感染症に対する抗体や免疫ができるには体内での複雑な反応に時間がかかり、それには個人差もある。潜伏期間も勘案すれば 5 日や 10 日でできるものではないし、種類によっては 2 週間でも危うく、免疫のできないものもある。武漢ウィルスというまだ詳細な性質が解明されていない感染源に対し、14 日でOKなどというエビデンス(この場合は医学的、疫学的な根拠)はどこにあるのだろうか。
もっとも、40日間の隔離あるいは外出・活動自粛というのは、平和ボケした多くの日本人に耐えられるものではないだろう。ただ、武漢ウィルスの医学的なコードネー ムは「SARS-CoV-2」。要するに、2002 年に中国南部で発生し 2003 年までアジアやカナダなどに感染を広げたコウモリ由来の SARS ウィルスの、それも感染力は強いようだが致死率は低い亜種だということだけはわかっている。つまり、今のところ(欧米型より凶悪なものに変異しないうちは)SARS より怖くないのだ。
不謹慎なようだが、インフルエンザや他の感染症同様、一定の割合で死亡する人はいる。長く激しい苦痛にさいなまれる人もいる。明日は我が身かもしれない。それはしかたのないことだ。戦後教育で死ときちんと向き合ってこなかった多くの日本人にはやっかいな問題だが、インフルエンザより少ない致死率(これも今のところだが) を、無責任なマスコミや政府にあおられて闇雲に恐怖してもしかたがない。
日本は諸外国に比べて圧倒的に有利な点がある。ほとんどの国にはそもそも、いつでもどこでもうがいや手洗いができるような安全で豊富な水道がない。「湯水のように」なんて言葉は日本でしか通じない。「日本人は使用禁止!」と書いてある水場も外国には多いのだ。幼稚園や小学校から手洗い、うがいを習慣づけてきた日本と同じような国は少ない。また、路上にウヨウヨいる細菌やウィルスも、玄関で靴を脱ぐ日本では屋内までばらまかれにくいし、時々降る雨がある程度は流し去ってもくれる。そして、駅やエレベーターをはじめ、公共施設の清掃が世界で一番、とびぬけて行き届いている国でもある。世界最先端のマスク大国でもあった(過去形)し、洗ってくり返し使うにも清潔な水が豊富にあることが条件になる。煮沸せずに飲むと危ない水道水や川水、水たまりで洗濯せざるを得ない地域を思えば、我々はできることをした上で、少しだけ抑制した普通の暮らしを続ければいいのではないか。
中世~近世、「ペスト医師」と呼ばれる医療従事者の一群がいた。黒死病が蔓延する都市に特別に雇われ、危険なペスト患者の死亡確認や治療に従事する彼らは、常に感染の危機にあり、生き残る確率は低かったという。ちょっと今回の武漢ウィルス騒動で強制的に大量動員された韓国の公衆保険医に近いものがあるかもしれない。
1656 年ドイツで描かれたパウル・フュルストの銅版画「ローマの嘴の医者(Doctor Schnabel vonRom)」ペスト医師(Plague Doctor)の姿。いわゆるカラスマスクだ。
ペスト医師には高名な錬金術師パラケルスス(1493~1541)のような優れた知識と技術を持った者もいたが、人気のない二流の藪医者や、かけ出しの若い医者も多かった。フランスやオランダではほとんど専門の医療教育を受けていないニセ医者もいたという。江戸時代の医者も特別に資格が必要なわけでもなく玉石混交だったから、いずこも事情は同じだったのだろう。フランスの予言者ノストラダムス(1503~1566) もペスト医師だった。ふつうの町医者より 2~4 倍も高い治療費や危険手当は都市が支払うので、ペスト医師は貧しいものも平等に施療したが、自らもペストに感染し死ぬものも、金だけもらって逃げ出すものもいた。
彼らは一般の医師より重装備で、全身を覆う革や蝋引きのガウンに手袋、つばの広い帽子、それに 17 世紀には患者との距離をとり、飛沫感染や空気感染を防ぐためのカラスの嘴のような円錐状の鼻のペストマスクを着けた。これはパリの医師シャルル・ド・ロルムが 1619 年に考案した防護服で、円錐の内部には瘴気を発する悪い空気を濾過するフィルターとして、安息香(ベンゾイン)、樟脳、丁子(クローブ)、没薬(ミルラ)、龍涎香(アンバーグリス)、阿片チンキ、薔薇の花びらなどをつめた。これがその後ヨーロッパ全土に広まり、ペスト医師のイメージを決定づけた。
手にした細い杖は古来医者のシンボルでもあったが、患者に直接触れることなく診察する道具でもあった。江戸の医者も腰に装飾的な木の刀を差す場合があった。これが西洋の医療者の杖と歴史民俗的に関係があるのかないのか、インドや中国の医者も 何かシンボルになるような杖を持っていたのか、興味ある問題だ。

1720 年マルセイユ(フランス南西部の港町)、ラザレ検疫所のペスト医師。
右はヴェネツィアのカーニヴァルでひときわ目立つ異形の仮面、嘴状の長い鼻を持つドットーレの仮面。Dottore はイタリア語で医者のこと。ペスト医師の姿がモデルだったのだ。
現代の防護マスクも基本構造は変わらない。
ペストマスクを着け防護服に身を包んだヨーロッパのペスト医師のいでたちを描いたロシアのポスター。目の部分には悪霊除けの赤いヴェネツィアングラスをはめ込んでいる。
Banksy 2020.05.07(部分)
Banksy 2014 英ブリストル 2020 医療用マスクの少女
腐 海 の 瘴 気 も コ ロ ナ も 大 丈 夫 ナ ウ シ カ 型 マ ス ク
1936 年(昭和 11 年)6 月 30 日の時事新報寫眞ニュース。女子高生がガスマスクをつけて歩くような世の中にはならないことを、今はただ祈るしかない。