- Category : 受講者の声
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SDAでは、予測ができない、答えが無い状況にどう応じるか、身体を通して学びます。
「セルフディフェンス」の「ハウ・ツー」を数多く蓄積しても実戦でその通り行くとは限りません。
なぜ「セルフディフェンス・アンド・アウェアネス」なのか。
想定できない未だ直面したことのない状況では、蓄積された知識より
「アウェアネス(気づき)」が重要です。
危機的状況をどう切り抜けるかを稽古しますが講習会自体は楽しく行われます。
「危険な状況を想定しているのだからキツイ内容の稽古じゃないか」とか、
「楽しくやっていて稽古になるのか」などの疑問を感じる方もいるかと思いますが
「楽しい」と「実戦性」は両立すると思います。
キツイことに耐えるという稽古では「キツイメニューをこなした」という
「満足感・達成感」が稽古方法への批判性を失わせ、自己正当化をすることがあります。
「耐える」という意識のもと行われる稽古の落とし穴であり甘さでもあります。
講習中によく「この技術がそのまま実戦で使えるわけではない」と光岡先生は言います。
一つの技術に対して欠点を同時に指摘します。
「何が起こるかわからない」状況を前提としているので「こうしておけば大丈夫」
ということが無いのです。
大変自由度の高い講習会で、「武術だから」と気張ってきた人は
拍子抜けするかもしれませんが、技に対しての真剣な態度があるのです。
楽しい稽古では参加者一人一人が技に対して能動的に接するようになります。
ただ方法を押し付けられる稽古との違いです。
その中で自分なりの発見があり、仮説、反証などを重ねて、技に対して積極的に向き合い、
深く身体化することが実戦性に繋がるのではないでしょうか。
だから、楽しいということに必然性があるのです。
楽しさと実戦性は両立するのです。
自分の頭で考えたことでなくても、どこかで聞いた意見を自分の意見として
言うことはできます。
しかしそれを自分で考えたことと言えるでしょうか。
どんなにすばらしい知識を蓄積して、その状況に適応しそうなことを
膨大な知識のなかから取り出してみせることができても、本当に「わかっている」のとは
「ちょっと違う」と思います。
武術においても、数々の状況を想定した多くの技術を情報として知っているということと、
本当に「身に着いた」ということはまた別の話です。
私達は安全で管理化された社会に生活しています。
ルールの無い状況、本当の実戦でどうするかなど考えなくても生きていくことができます
(昨今の状況を鑑みるに異論もありましょうが)。
しかし、そのおかげか「何が起こるかわからない」状況に対してどう対応すればよいかの
知恵がありません。
そこで光岡先生の武術観、人生観から学ぶことはとても多いと思います。
安全な社会で生活しているうえでは当然として疑いもしなかった前提を
見直す機会になります。
光岡先生「その人」が教えることに必然性のある講習会です。
講習内容の大筋は決まっていますが、受講者の質問一つで稽古方法が
ガラッと変わることがあります。
「私は武術のことを全く知らないのですが」という前置きで質問される方がいますが、
そういう方ならではの質問で稽古内容が思わぬ方向へ進むのも面白いところです。
講習会自体が、「何が起こるかわからない」ものになっています。
それを面白いと感じられる方が参加することによって、
講習会がさらに楽しいものになると思います。
「セルフディフェンス」の「ハウ・ツー」を数多く蓄積しても実戦でその通り行くとは限りません。
なぜ「セルフディフェンス・アンド・アウェアネス」なのか。
想定できない未だ直面したことのない状況では、蓄積された知識より
「アウェアネス(気づき)」が重要です。
危機的状況をどう切り抜けるかを稽古しますが講習会自体は楽しく行われます。
「危険な状況を想定しているのだからキツイ内容の稽古じゃないか」とか、
「楽しくやっていて稽古になるのか」などの疑問を感じる方もいるかと思いますが
「楽しい」と「実戦性」は両立すると思います。
キツイことに耐えるという稽古では「キツイメニューをこなした」という
「満足感・達成感」が稽古方法への批判性を失わせ、自己正当化をすることがあります。
「耐える」という意識のもと行われる稽古の落とし穴であり甘さでもあります。
講習中によく「この技術がそのまま実戦で使えるわけではない」と光岡先生は言います。
一つの技術に対して欠点を同時に指摘します。
「何が起こるかわからない」状況を前提としているので「こうしておけば大丈夫」
ということが無いのです。
大変自由度の高い講習会で、「武術だから」と気張ってきた人は
拍子抜けするかもしれませんが、技に対しての真剣な態度があるのです。
楽しい稽古では参加者一人一人が技に対して能動的に接するようになります。
ただ方法を押し付けられる稽古との違いです。
その中で自分なりの発見があり、仮説、反証などを重ねて、技に対して積極的に向き合い、
深く身体化することが実戦性に繋がるのではないでしょうか。
だから、楽しいということに必然性があるのです。
楽しさと実戦性は両立するのです。
自分の頭で考えたことでなくても、どこかで聞いた意見を自分の意見として
言うことはできます。
しかしそれを自分で考えたことと言えるでしょうか。
どんなにすばらしい知識を蓄積して、その状況に適応しそうなことを
膨大な知識のなかから取り出してみせることができても、本当に「わかっている」のとは
「ちょっと違う」と思います。
武術においても、数々の状況を想定した多くの技術を情報として知っているということと、
本当に「身に着いた」ということはまた別の話です。
私達は安全で管理化された社会に生活しています。
ルールの無い状況、本当の実戦でどうするかなど考えなくても生きていくことができます
(昨今の状況を鑑みるに異論もありましょうが)。
しかし、そのおかげか「何が起こるかわからない」状況に対してどう対応すればよいかの
知恵がありません。
そこで光岡先生の武術観、人生観から学ぶことはとても多いと思います。
安全な社会で生活しているうえでは当然として疑いもしなかった前提を
見直す機会になります。
光岡先生「その人」が教えることに必然性のある講習会です。
講習内容の大筋は決まっていますが、受講者の質問一つで稽古方法が
ガラッと変わることがあります。
「私は武術のことを全く知らないのですが」という前置きで質問される方がいますが、
そういう方ならではの質問で稽古内容が思わぬ方向へ進むのも面白いところです。
講習会自体が、「何が起こるかわからない」ものになっています。
それを面白いと感じられる方が参加することによって、
講習会がさらに楽しいものになると思います。